東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画
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農業振興策
横井時敬著 1907

信用組合論
附生産及経済組合ニ関スル意見
高橋昌、横井時敬合著 1891

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『農業振興策』 横井時敬 1907
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『信用組合論』 高橋昌 横井時敬 1891
 横井時敬は万延元(1860)年1月肥後熊本藩士横井久右衛門の四男として生まれ、熊本洋学校を卒業後、明治11(1878)年に東京駒場農学校農学本科に入学、同13年6月に同科を卒業した。卒業後は兵庫県、福岡県、農商務省などに勤務するが、福岡県農学校時代に「種籾の塩水選種法」を考案し、それをもとに刊行した『稲作改良法』(1888)は有名である。明治23(1890)年に農学士の組織である農学会の幹事長となり、明治24(1891)年1月には、農商務大臣井上馨への答申であり、農学会の農政提言第一号とされた『興農論策』を自ら執筆した。明治26(1893)年に東京帝国大学農科大学講師、翌27年には教授となり、農学第一講座を担当したが、横井は大正11(1922)年に東京帝国大学を退官し、昭和2(1927)年に67歳で亡くなるまでの間、大日本農会副会頭、東京農業大学初代学長、帝国農会特別議員、小作調査会委員などを歴任し、その間に『栽培汎論』(1898)『農業経済学』(1901)『農学大全』(1904)『農業振興策』(1907)『農村改良論』(1917)『合関率』(1917)『小農に関する研究』(1927)など多数の著書を執筆した。彼が最もめざしたのは、学理と実地の面での農学研究であり、その方法論からいえば分解的研究と総合的研究の調和であった。彼の「農学栄えて農業亡ぶ」、「稲のことは稲に聞け」という有名な言葉は、この両者の整合性を見出すために苦闘した一農学徒の苦汁の言葉として受けとめることができよう。
 横井の著作のうち『信用組合論--附生産及経済組合ニ関スル意見--』は、当時農学会の評議員であった高橋昌との共著で、明治24(1891)年12月に発行されたものである。その目的は、第二帝国議会に内務大臣品川弥二郎が提出した『信用組合法案』に対する、農学会としての見解を広く世に問うことであった。この「法案」は松方デフレ等による農民の疲弊が深刻になった明治中期に、これを防ぐために当時の法制局部長平田東助と杉山孝平が中心となり、ドイツの都市部で設立されていたシェルチエ系の信用組合をモデルに起案したものであった。しかし、当時の農学会と農商務省は、農業・農村振興には信用組合だけではなく、購買、販売、生産などの諸事業をも行う総合的な協同組合が必要であると考えており、当時ドイツの農村で広く普及していたライファイゼン系の信用組合の方がわが国の農業・農村に適合していると判断していた。このため、法案提出に対応して急拠世の意見を問うために刊行されたのが本書であった。しかし、実はこの書の原案執筆者は横井や高橋ではなく、留学中にドイツの協同組合をつぶさに調査・研究してきた農務課長渡部朔と参事官織田一であり、彼らの草稿に手をいれて発行されたのが本書であるといわれている。わが国独自の農業・農村振興策がようやく確立されてくるこの時期において、諸外国からの直輸入ではなく、あくまでもわが国の風土に適した学理と実践性を重視した横井の社会活動の一例として、この書をみることができよう。なお、第二帝国議会は政府と民党(板垣、大隈らの野党)が衝突して解散となり、この法案も廃案となった。この法案が「産業組合法案」として形を整え再び提出されるのは、明治30年2月の第十帝国議会であったが、またもや審議未了となり、明治33年2月の第十四帝国議会においてようやく可決成立の運びとなった。「農業党の先鋒者」「農業教育の情熱の人」「八面六臂の男」とも言われる「農学の祖」横井時敬の、若き日の活躍の一端をこの書にみることができる。
(農業・資源経済学専攻 八木宏典)

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