東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画
農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」
 
Phillip Franz von Siebold
(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)
1796-1866
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シーボルト『Flora Japonica』1835
標題紙
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シーボルト『Flora Japonica』
52図 Hydrangea Otaksa(アジサイ)
 Flora Japonica. 1835
 シーボルトはドイツに生まれ、ヴュルツブルグ大学の医学部教授だった父と同じく医学と自然科学を学んだ。大学を卒業後、東インド会社に軍医として勤め、1823年に長崎出島の医官として渡日した。その後、日本人女性滝と暮らし、2人の間に稲が生まれた。シーボルトは、長崎市の郊外鳴滝に診療所や学塾を設けて、西洋医学や自然科学を教えた。1828年帰国にあたり、当時禁制の地図や書物が発見されていわゆるシーボルト事件を起こしたために約1年間軟禁されて、1829年に帰国した。
 シーボルトは日本の植物を愛し、また、純粋な植物学的な興味だけではなく、園芸の観点からも関心を抱いていた。とりわけ日本の植物をヨーロッパの庭園に導入することは彼の渡日目的の一つであり、園芸種苗をオランダに送った。そして、テッポウユリなどの日本の植物が初めてヨーロッパで栽培される契機となった。
 シーボルトは経済的支援を受けたオランダ皇后Paulowniaの名前をキリの学名(属名)とし、また、妻であった滝の愛称「おたきさん」に因なみアジサイにHydrangea otakusa という学名(種小名)をあてた。
 帰国後、日本の植物について本書『フローラ・ヤポニカ(Siebold et Zuccarini: Flora Japonica, 1835-1870)』を著した。シーボルトはツンベルグの『フローラ・ヤポニカ』とは異なる著作にするべく共著者にミュウヘン大学の植物学者ツッカリーニ教授(Joseph Gerhard Zuccarini)の協力を得た。本書『フローラ・ヤポニカ』は、最初の1図〜10図が出版されたのは1835年であったが、最後の128図〜150図はシーボルト没後の1870年に刊行された。このようにしてS. et Z.(Siebold et Zuccarini)命名による植物名は、わが国のアカマツ、ゴヨウマツ、モミ、ウラジロモミ、コウヤマキ、ネズミサシ、アスナロ、イチイ、カヤ、ヤマモモ、サワグルミと枚挙に暇がない。また、ツガ Tsuga sieboldii やヤマナラシ Populus sieboldii など多くの植物の学名(種小名)がシーボルトの名前を記念して付けられている。
 日本から持ち帰ったシーボルトの標本は、オランダの王立ライデン植物標本館、ツッカリーニのミュウヘン大学、そしてマキシモヴィッチの労によってロシアのコマロフ植物研究所などに保管されている。
(森林科学専攻 鈴木和夫)

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